第1回大会 明治38年5月8日 吾妻橋-東大艇庫前(向島) 1,250m
第1回大会は明治38年5月8日に行われました。時代は日露戦争の真っ最中、日本海大海戦はこの19日後、そんな時代のことです。当時、隅田川の向島近辺には東大、高商(一橋大)、外語大、学習院といった各校の艇庫があり、各校とも校内競漕大会がさかんに行われていた様です。 そんな慶應義塾の校内大会の前日に、明治37年に創部したばかりの早稲田が明治20年創部の慶應義塾に試合を申し入れて、第1回大会は実現しました。レースにあたり両校の色は現在のスクールカラーとは異なり、抽選によって赤が早稲田・白が慶應義塾と決まりました。両校の学生をはじめ、前評判を聞き付けて集まった野次馬が、双方の応援に両岸を赤白に分かれ、その盛り上がり源平合戦さながらだったと言われいます。このレースは現在の様なエイトではなくシックスで競われ、早稲田の艇が1艇身半で勝っています。 この記念すべき第1回早慶レガッタの反響は大きく、翌年以降の開催が期待されましたが、野球の早慶戦の過熱振りから、早慶両校の対校戦が全面禁止になるに到り、昭和5年の第2回大会まで25年の月日を待たねばならなくなりました。
第2回大会 昭和5年4月29日 荒川尾久 日の出製肥 学習院艇庫 2,000m
明治38年の第1回大会から途絶えていた対校レースが26年ぶりに復活。 スタートは早稲田リード、その直後、慶應が抜き返し1,000mまでは慶應がリードするレース展開。 1,500m付近で早稲田が逆転、ラスト500mで僅差の接戦が続きましたが、早稲田が辛くも5分の1艇身で逃げ切りました。時間にして0.57秒の僅差。 当日は前日からの雨が降り続き、スタート地点の尾久には傘をさしてスタートを待つ応援の人々の写真が新聞に載っています。スタート予定は午後4時半。実際のスタートは午後5時52分と、時間がゆっくり流れていた旧き良き時代の復活早慶戦でありました。
第26回大会 昭和32年5月12日 永代橋-大倉別邸前(向島) 6,000m
このレースはオアーズマンシップ、スポーツマンシップを物語るものとして、早慶レガッタのみならず、日本アマチュアスポーツ界に残る名勝負となりました。当時は「道徳」の教材にも取り上げられていたほどです。 レースの行われた昭和32年5月12日は強い風雨の日でした。永代橋を逆風と雨の中を両校スタート。慶應が先行、浜町付近(1,600m)ではすでに4艇身のリード。しかし、よく見ると早稲田の様子がおかしい…艇前部や後部のペアが時々漕ぐのを休んでいる…この時、荒れた隅田川は白波が立ち、容赦無く両校の艇を襲っていました。シートが外れたのか?あるいは艇の故障か? なんと早稲田のクルーが漕がなかったのは、艇を沈めないために、用意してあったアルミ食器で水をかき出していたからなのです。そんな状態ですから艇差は開くばかり。両国橋では6艇身差、誰もが慶應の勝利を疑うべくもありませんでした。しかし、蔵前橋を過ぎようとする頃、慶應の艇速が鈍り始めます。今まで何とかしのいできた水が、ついに溜まりはじめたのです。 かき出すにもアルミ食器の準備がない慶応は、ローイングシャツに水をしみ込ませて絞り出す始末。早慶の食器とシャツの汲み出し競争が始まりました。しばらくすると、早稲田が有利になり、厩橋付近(3,500m)では慶應はかなりの浸水状態。駒形橋では早稲田が半艇身に迫ったところで、慶應はついに沈み始めました。コックス、ストローク、7番…と艇尾部から順に沈んでいきます。慶應あえなく沈没、リタイヤ。そんな慶應を横目に早稲田が水をかき出しながら抜き、そのままゴールへ。 審判協議の結果、「(中略)レース中、水路、用艇、その他に関し事故が起きた場合といえども、それぞれのクルーの責任とする」という競漕規則にのっとり、早稲田の勝ちを宣言。この裁定に対し、早稲田は不可抗力によるアクシデントととして、再レースを申し入れましたが、慶應は「負け」を主張。再レースは行われることはありませんでした。最後に、このレースで苦渋の選択を迫られた両校コックスの象徴的なコメントを紹介しておきましょう。
第47回大会 昭和53年4月16日 永代橋-白鬚橋 6,000m
昭和36年の30回大会を最後に隅田川を離れていた早慶レガッタが戻ってきた記念すべき大会です。昭和30年頃から高度経済成長に伴う河川交通量の増大、高速道路向島線の架設工事、水質汚染等で、隅田川は既にボートを漕げる環境では無くなっていました。 早慶レガッタは昭和37年の第48回大会から戸田、相模湖、荒川と転々とその開催コースを変えざるを得なくなり、かつて「東京春の風物詩」と言われたその姿を隅田川から消しました。しかし、物通の主流がかつての船から自動車に変わり、公害対策も進み、川に魚が戻り始めたのを機に、再び早慶レガッタを隅田川にという機運が早慶両校、地元自治体、地元商店会に芽生え、復活の運びとなりました。そうは言っても17年間のブランクは大きく、河川に新たにレースコースを設定する作業は、レースコース設営経験のあるOBを総動員して大変だった様です。 かつては観客席に開放された各校の艇庫は戸田に移転し、隅田川の護岸もすっかり変わり、艇を水面に下すことすら侭ならない変わり様で、最終的には艇をクレーンで下したと言います。また、河岸に何人の見物客が押し寄せてくるかも分からない。また、17年前の警備経験者もいない。警視庁も地元も相当頭を痛めたそうです。そんな多くの人々のご協力を得て、「復活 早慶レガッタ」は無事開催の運びとなり、現在に到っています。ちなみに勝敗は慶應が下馬評を覆し、大差で早稲田を下しています。
第50回大会 昭和56年4月26日 両国橋-白鬚橋 4,000m
50回を記念して、オックスフォード大学・ケンブリッジ大学の両クルーを招聘して開催されました。 本家本元のオアーズマンの来日に加え、オックスフォード大学のコックスが女性ということもあり、大いに世間の注目を集め、マスコミから多くのニュースに取り上げられました。 招待レースは初夏を思わせる日差しの中、オックスフォード大コックスのスーザン・ブラウン嬢の操る艇が、スタートから順調にリードを拡げ、750m地点で早くも1艇身のリード。ケンブリッジ大も負けじと食い下がるものの、厩橋付近(1,160m)では2艇身。さらに吾妻橋(1,800m)では3艇身半と水があくばかり。 終わってみれば8艇身の大差で、オックスフォード大に凱歌が上がりました。 試合後のスーザン嬢の感想は「テムズ川より波が荒くてびっくりした。絶対、艇を沈めないようにしながら、ケンブリッジ大より先を漕ぐことを意識した。」とのこと。 そんな世界最古の伝統を誇るボートレースの興奮も冷めやらぬ中、早慶の対校レースはまれに見る接戦となりました。慶應は駒形橋で早稲田を1艇身引き離しリードを保つかと思われましたが、2,700m付近で早稲田が追いつき、ラスト300mまで両校相譲らないレース展開。ゴール手前150mまでもつれ、最後は早稲田が慶應をかわしゴールに飛び込むという激戦。観戦していたオックスフォード・ケンブリッジ両クルーも思わず「すごい!」と叫ぶ、好レース。日本のオアーズマン、面目躍如たるレースとなりました。
第55回大会 昭和61年4月13日 両国橋-白鬚橋 4,000m
4000mにして同着という結果に、まず驚かない者はいないでしょう。 昭和61年に行われた第55回大会は、これまでに類のない唯一の同着レースとなりました。レースは抜きつ抜かれつの展開。スタートで早稲田が出るも、300mほどで慶應が抜きにかかる。しかし1200mほどを過ぎて駒形橋を抜ける頃には、今度は早稲田が慶應を抜きにかかる。まさにシーソーゲーム、言問橋付近で再び慶應が早稲田を追い抜き、勝負は桜橋をくぐり白鬚橋へ・・・。
第73回大会 平成16年4月18日 両国橋-桜橋 3,200m
「技の慶應、力の早稲田」 早稲田と慶應の戦いぶりを形容するこの言葉は、これまで幾度となく使われてきました。一般に、体格が大きくパワーで艇を進める早稲田に対し、慶應は8人で合わせて漕ぐ高い技術で艇を進めると言われています。その年その年で多少の違いはあるにせよ、第73回大会は、まさにこの言葉が当てはまるレースでありました。 レース2週間前に行われた「お花見レガッタ」で、早稲田は荒削りながらも力強い漕ぎで、大学勢の中で1位という結果を残しました。早慶レガッタでも下馬評では「早稲田が有利だろう」という意見が多数を占めていました。 一般に、雨天のときは雨が隅田川の波を抑えつけるため、比較的良いコンディションの下でレースが行われますが、この場合、力で勝る早稲田に有利に働きます。一方、快晴の天候の場合、この春の時期は風が舞うことが多く、コンディションが荒れるため、技で勝負する慶應が有利だと言われています。 この日の天気は快晴。午前中はほとんど無風であったのが、対校エイトの時間が近づくにつれ、強い風が吹き始めたのです。隅田川の波は収まることを知りません。 スタートで圧倒的な力で突き離しにかかるはずだった早稲田が、隅田川の波に苦しみます。一方、慶應は力で早稲田に劣るものの、高い技術力を持って8人で早稲田をじりじりと離しにかかります。 結局、早稲田は一度も慶應の姿を見ることなく、一方慶應は、絶えず早稲田の背中を見ながら漕げるという楽な展開に持ち込み、技の慶應が力の早稲田に「完勝」したのです。